八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々 : 過去ログ : 2008-08-27

Aug 27, 2008

秋刀魚三昧 三枚おろしの方法

  木曽から帰ってくると、気仙沼の秋刀魚がどどっと届きました。
氷の中から救い揚げるとまるまる太って、嘴が黄色いピンーと張った秋刀魚が出てきました。
こんな秋刀魚はまずはお刺身で。それにやっぱり定番の塩焼きだって・・・と旅支度を解く間もなく料理に取りかかりました。お刺身のつまは大根、キュウリ、ミョウガ、大葉を細く千切りにしてたっぷりと。これで秋刀魚を包むようにしていただくと最高です。
 お刺身を作っている間に塩焼きににもします。油がのっていて、グリルの中で火災が起きているようです。でもこんがり美味しそうに焼け、表面がジュクジュクいっています。「頂きまーす」

 ご近所と仲間にお裾分けしても、まだまだたっぷりとある秋刀魚。ただただ冷凍してしまうのは勿体ないので、軽く酢じめにしておくことに。
 まずは秋刀魚を三枚におろしますが、皆さんはこんなに沢山有るお魚をどうおろしますか?お料理教室でもお料理本でも教えているように、鱗を取り、頭を落とし、内臓を取り除き、三枚におろしていませんか。でもこれだとまな板が血だらけ、身も洗いたくなりますよね。
でも私流は・・・・・

魚のおろし方
  1. 鰺や秋刀魚位なら鱗も取らずに丸ごと一度綺麗に洗います
  2. 頭を右にして包丁の先をえらの下に斜めに入れ、手前は内臓を避けるように、内臓の入っている部分を切らないように斜めに持ち上げながら中骨と身の間を切っておろします。
  3. 次は裏返して、やはり内臓の入った部分を避けて、中骨と身に間に包丁を入れておろします。
  4. 残った中骨にには頭とエラ下の腹部が綺麗に付いたまま残ります。中骨をつかいたい時は、最後の最後に頭と内臓を取り除けば、三枚におろしている間、ほとんどまな板は血で汚れず、身も洗うことなくお刺身にできます。洗う回数が多ければ多いほど鮮度も味も落ちますので。
  5. 身の方は小骨を抜いて、普通通り皮を引き、食べやすい大きさに切ればお刺身に。
  6. 酢じめにする場合は小骨も取らず、皮ごとしめると、骨も気にならなくなり、皮も引きやすくなります。
  7. 鱗の堅い鯛やイサキ、ぬめりの有るカレイやヒラメは鱗を落とし、良く洗ってから、同じように内臓を取らずに、傷つけずにおろします。

これは私がお魚屋さんが素早くお刺身を作っているのを見て学んだ方法です。慣れると普通の方法と同じくらい身を取れますよ。横浜時代に主人と二人で海釣りに行くと、山のように魚が釣れ、この方法で裁くといとも簡単でした。中骨から頭を落とし、内臓を切り離し、中骨と頭を綺麗にして姿作りにも使えます。今はお魚屋さんや市場で買うことも少なく、スーパーでトレイにのているお魚を買う時代。なかなかこのようにおろし方を見て学ぶ機会もなくなりましたね。今度機会があればおろしてる画像を主人に撮ってもらいます。
            画像撮りましたので追加します。(9月7日)
            
                  クリックしてご覧下さい。
 私は慣れているので、3のように身一枚で内臓と言うところおろします。これでも血は出ません。 でも慣れない方は、初めは5,6で見るように、皮ごと腹部が残るようにおろしてください。ちょっと身が少なくなりますが、失敗するよりは良いです。


 今日はここまで。明日は 秋刀魚寿司 を。

小さな夏休み エンディングは開田高原と蕎麦

 今年の夏後半は雨ばかりでした。なのにこの2日間は雲間から青空が覗き、爽やか旅行日和でした。折角だからと、帰る前に開田高原、御岳ロープウエイに行ってみようと言うことに。
 開田高原に向かっていると、何もないところに突然「幻の蕎麦」の看板。お蕎麦屋さんらしい建物ではなく、ちょっと美術館風。時間も時間なので、朴の葉に頬を撫でられながら長い木の外廊下を歩いていくとやっと入り口。この贅沢な空間もここのこだわりかな?待つ人10 人余り。その間に入り口に置いてある本や、パンフレットで何故「幻の蕎麦」なのかを知る。ここのお蕎麦は粗挽きのそば粉で、粗挽きゆえ十割で作ると喉越しが良くないそう。かといって小麦粉をつなぎにすると蕎麦の風味が損なわれる。そこでほんの少しの量で、つなぎとなり、喉越しの良くなる「オヤマボクチ」を0.12%入れるそう。他にもヤマブドウの繊維を使ったお蕎麦も有るそうですが、今日はありませんでした。
 私はいつか山でオニアザミのような「オヤマボクチ」を見たときに、友人が「これは昔お蕎麦のつなぎにしたのよ」という言葉がいつまでも耳に残り、いつかそれを食 べてみたいと思っていたのです。今日は全く偶然ですが、それに出会うことが出来ました。そば粉は何と八ヶ岳のそば粉と志賀のそば粉と地元産を使っているそうです。八ヶ岳で美味しいお蕎麦を食べている私には、八ヶ岳の美味しいお蕎麦とオヤマボクチのお蕎麦の差を感じ取るまでには至りませんでした。どちらも美味しいお蕎麦なのです。でも望むものとの偶然の出会いが嬉しかった!そして思ったことは「幻の蕎麦」に我が八ヶ岳の蕎麦は決して負けていないことが超嬉しかったのです。
 八ヶ岳にも蕎麦の花が咲き始めました。11月には新蕎麦も。(あれ?急に宣伝モードですいません)
八ヶ岳蕎麦情報
 お蕎麦の後は開田高原でソフトクリームを食べて御岳ロープウエイに。山麓駅は赤ぞばの花が満開でピンクの絨毯です。ロープウエイ終点には高山植物園があり、ここは一足早く秋の気配。今日はそこを一周して家路に向かいます。

 帰路は19号線に出たら、権兵衛トンネルを抜け伊奈から中央道で小淵沢に帰ってきました。
 「小さい夏休み」と言いつつ、本当にそうなんですが、何故か長い長い旅日記になり、ここまでお付き合いありがとうございました。

小さな夏休み 妻籠脇本陣(屋号・奥谷)

 妻籠宿のそぞろ歩きの最後は脇本陣に入ってみます。本陣は一度取り壊されて、その後近年復元されたものですが、こちら脇本陣は代々林家が勤め、木曽五木の禁制が解かれて、明治10年に総檜に立て替えられて、それが現在まで残っているものです。囲炉裏の間から上がりますが、黒光りした床や黒々とすすけた太い柱。まずは2階をご覧下さいと言われ、二階から見学。おりてくると「よろしければ少しお話をさせていただきますが」と声の綺麗な女性が声を掛けてくださいました。            
 囲炉裏端に座ってお話を聞きますが、まずは座る場所の説明から。この方が座っているのが下座で、私たちが座っているところが上座です。タンスの前は女性の席で、ゴザをめくると半分は畳がなく板の間で、ここは嫁の席です。そして囲炉裏にくべてある薪を見ると、上座にすべて火のついた方が向いています。これは当主に暖が行くように。そして下座に衝立があるのは、これで風を防ぎ、当主に煙が行かないようにとの気遣い。実際煙にまみれているのは説明係の女性です。流暢な説明に納得もし、封建時代の厳しさを感じましたが、果たして我が娘は何を感じているやら。そして次に実際上座と下座に座って暖かさの違い、上座の前に置いてる一本の木で、いかにあぐらをかきやすいかを体験してみます。

         もしも我が家にこの囲炉裏があったら、誰がこの席に座るのかな?
 次は立って各お部屋の説明です。明治13年の明治天皇御巡幸のおりに休憩をされたお座敷には古い机のようなガタガタのテーブル。当時洋式のテーブルがどんなものか分からずに、にわか仕立てで作ったそうです。天板をひっくり返すと墨で天皇陛下がご使用になった旨が書いてあるので分かるものの、そうでなければ捨ててしまわれそうなテーブルでした。それに井戸水を汲んだ桶、一度も使われなかった白砂を敷いた厠等が残っています。確かその頃明治天皇は我が家の近くの七賢にも・・・と言うと「そうです、山梨からこちらにいらっしゃったのです」と。
 そしてここが藤村の「初恋」のモデルになったおふゆさんの嫁ぎ先でもあります。おふゆさんの愛用品や、絶筆となった藤村の貴重な資料等も展示してありました。あまりに説明が細やかで流暢なので、ここでお話に聞き惚れ、写真を撮るのを忘れました。形なけれど、色々勉強になること沢山聞かせてくださいました。感謝。
 妻籠の近くには、木曽川の発電所開発を行っていた福沢諭吉の養子・福沢桃介が別荘として大正8年に建てた建物が残っているそうです。ここには行きませんでしたが、民宿の大女将さんの話では、「日本の女優第一号」とも言われる川上貞奴が、夫・音二郎の死後、福沢桃介と再会し、以後パートナーとしてここで共に暮らしており、時折舞踏会が開かれ、村の子供達がそれを窓からのぞき見てビックリしたとか。そんな話を聞くと、この山深い木曽の地に、藤村の書いた「夜明け前」と「夜明け後」を見る思いがします。

小さな夏休み 妻籠宿をそぞろ歩く

 朝食の後、荷物を置いて妻籠宿を歩きます。昨日見た夕暮れの景色とは違って、明るい日差しの中、軒先のお花や緑が輝いています。まだ時間も早いためか人でもなく、それでもほとんどのお店が店開きしています。さすがです。軒先に大きなヘチマやヒョウタンがなっているお店や、アサガオやサンパラソルが絡まって咲いている家、格子戸や壁に綺麗に盛った生花ををかけている家など、古い家並みを引き立て、道行く人を楽しませてくれます。 街道を彩る花のアルバムへ
 江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも言われ、東海道の川の氾濫を心配して女性がよく利用した道だそうです。でもこんなに峠が多くて、いくら籠に乗っていたとしても、どんなにか過酷な旅だったでしょうか。脇本陣に籠がありましたが、本当に小さな籠で、この中に何時間も座って、何日も揺られるなんて、想像しただけで気が遠くなります。
 妻籠本陣に入ってみます。本陣には島崎氏が任命され、明治に至まで本陣、庄屋を勤めたこの家は島崎藤村の母の生家で、次兄広助が養子に来て最後の当主でもありました。小説『夜明け前』の青山寿平治(与次右衛門重佶)の家でもあります。明治に入って取り壊されてしまった本陣を、町並み保存に伴い、島崎家の絵図を元に復元されたそうです。広さと言い、建物と言い、この山奥の本陣としては立派な物です。家人は普段下段の間だけで生活し、写真の上段の間は偉い客人だけが。妻籠宿本陣のアルバムへ
 だんだん人出も増えてきて、少し賑わってくる。こんな町並みはせめてこの位の人出の時に歩きた いもの。あちらこちらのお店を覗くのも楽しい。こちら漆器も多いけれど、木曽檜の桶やまな板など無垢の木の製品も多く、店内には檜の良い香り。山に囲まれふんだんに木があるにもかかわらず、木曽檜を大事にした天領(幕府の直轄地)にあったため、、「檜一本、首一つ」と言われたほど厳しく、庶民には近くてほど遠い木だったにちがいない。特に大事にされた木曽の五木「ひのき」「あすなろ」「ねずこ」「さわら」「こうやまき」 が鉢植えで置いてある。悠仁さまのお印がこの高野槇なのかと見る。私は檜の押し寿司器を買ってみた。段々手に袋が増えてくる。写真は枡形(敵の侵入を防ぐために道を直角に曲げてある)に続く道。妻籠宿 町並みのアルバムへ

脇本陣の紹介はまた明日