八ヶ岳 「ペンションあるびおん」の日々 : 大鹿村を訪ねて

Oct 21, 2011

大鹿村を訪ねて

 大鹿村騒動記をみてから、一度は尋ねてみたいと思った大鹿村。とうとう行くことができました。 中央道松川ICで降りてから、小渋ダムの開発に伴ってできた小渋線で約40分。山奥の村です。ガイドブックには「信州で2番目に山奥の村」と書いてありました。今日は途中の小渋湖でカヌーを楽しんでから来たので着いたのは夕方の4時少し前。まず目に入ったのは大きく山が崩れて、岩盤がむき出しになった山。これは三六災害の跡で、昭和36年6月29日午前9時10分に梅雨前線と台風6号の相乗効果で大西山が崩落したそうです。その土砂に39戸が飲み込まれ42人が犠牲になったそうです。そこでは崩落跡がさらに崩れないようにする工事が延々と行われているそうで、、今日もヘリコプターが岩壁すれすれに飛び、上下に行ったり来たりしていました。その麓は現在は大西公園となり、桜の名所になっているそうです。

 さて私たちはまずは観光案内所ビガーハウス(vijorとは活力)へ。各種パンフレットから大鹿村騒動記の映画にまつわるパネルなどが展示されています。お隣は特産品を売っているお店もあります。映画に使ったセット居酒屋「ディア・イーター」が残っていて、お店もやっていると聞き急いでいきまいたが、時間が時間で すからもう閉店していました。残念!このお店の近くには駆け落ちした妻・貴子と幼なじみの治が村に戻って来るときに渡った橋もあります。小渋(花)橋という名で、橋には両脇にずっと赤いゼラニュームが植えられています。頭に巻いたスカーフを風になびかせながら歩いてきた貴子・・・映画のシーンが蘇ります。その手前にはこれも見覚えのあるバス停が。

 ここから更に大鹿村の中を散策。幼い頃を思い出す小さなお店や町並みをみながら、大鹿歌舞伎の舞台である大蹟神社へ。

                     この場所が溢れるばかりの観客で埋まるのですね。

ここ大蹟神社は毎年春の5月3日に大鹿歌舞伎が開かれるところなのですが、映画では秋の公演がここで開かれています。そこで今年はここで秋の特別講演が開かれるそうで、今はその準備に追われているのかも知れませんが、静かな村からはそんな気配さえ感じず、出会う人ごとに佐藤さんが歌舞伎にでますか?と聞きますが、出る人との出会いはありませんでした。日程的に今年は歌舞伎を見に来ることはできないのが残念です。
  大鹿村は映画・大鹿村騒動記により村の存在も大鹿歌舞伎も知られるようになりましたが(知らなかったのは私だけかな?)、ここは歴史の道「秋葉街道」の一部で、遠州・秋葉山(浜松市春日町)と諏訪湖を繋いだ220kmの古の道でもあり、江戸時代には秋葉詣で旅人が多く利用したそうです。またこの道は日本最大の中央構造線に沿ってあり、大鹿村にはその路頭も多くあるそうです。そういえばここへ来る間にも砂利の採掘場などありましたが、断層にはマイクロナイトという崩れやすい岩があり砂利には最適らしいです。それが産業になったり、それが災害の元になったり・・・
その他にも化石海水ではないかと言われる塩水が噴き出したり、知れば知るほど色々な魅力がじわじわとしみ出してくるような不思議な村です。こんな山奥なのに村民の6人に1人が移住者というのも、そんな魅力にとりつかれてしまうのでしょうか。
 今日は時間もなくさらりと見てきましたが、大鹿歌舞伎を観たり、青いケシの咲く頃などに再びゆっくりと尋ねてみたいです。小渋線を下って松川に戻る頃にはすっかりと日も暮れていました。
  お腹の空いた主人が「折角だから美味しいソースカツ丼を食べて行きたいナー」の一言で、ガイドの佐藤さんが伊那のお店に案内してくれました。そこはこんな所にお店が?と思うような住宅街の中のお店で、ソースカツ丼の元祖と言われる「青い塔」というお店でした。名前もトンカツ屋さんらしくないのですが、由来は、一代目が溝州鉄道の賄をしていた時に大変御世話になった「青い塔」の名をいただいたそうです。その一代目は「ひげのとんかつ」と呼ばれていたそうです。今は二代目です。お肉は厚くて柔らかで、ソースも絶妙です。私は大好きなカツサンドいただきましたが、トーストされたパンに厚いカツが挟まれて大満足でした。食べきれないサンドはお持ち帰りまでしてしまいました。

         馬もつ煮            蓋の閉まらないほど肉厚のロースソースカツ丼


 それにしても悠々紅葉カヌーに、大鹿村走動記、元祖ソースカツ丼店訪問と充実した一日でした。佐藤さん、お疲れ様でした。