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夕べの雨も止み、薄日も差してきて今日はウォーク日和です。今日のウォークは清里・開拓の道ウォークです。八ヶ岳にどうして開拓に入ったのか、そして開拓の人々はどうやってここを切り開いて行ったのか・・・私たちは知らないことだらけ。開拓の父としてポール・ラッシュさんは有名ですが、今日はもう1人の開拓の尽力者・安池興男さんにまつわる「安池興男物語ロード」を歩き、開拓の歴史を勉強しながらのウォークです。このコースは 「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも入っています。 清里も一歩横道にはいると一気に静かになり、緑溢れる道となり、賑やかさはどこにも感じません。今日は特別に許可をとって「青年の家」の敷地内にある牧草地を歩き、ヤッホーの丘にも行きました。 本来ならこの丘からは八ヶ岳、南アルプス、富士山、茅が岳などパノラマで見られるのですが、生憎今日は雲の中。でもみんで声を揃えて「ヤッホー」と叫ぶと山からこだまが帰ってきましたね。下の動画のスピーカ音を出して聞いてみましょう。 牧草地を抜けて、八ヶ岳興民館に到着。ここは公民館ですが恩人・興男さんの興をとって公興民館としたしたのです。 ここからが「安池興男物語ロード」の始まり。開拓者が心のよりどころとしたいと建てられたログハウスの神社・八ヶ岳御崎大神社に寄り、今はペンションやレストランが並ぶ道となっている中にある八ヶ岳分教所跡にも寄りました。地元の学校では身なりやヤニの匂い(家の中で松の根を燃やさなければ、まっくらな中で寒さにふるえていなければならないため)のためにいじめにあったり、片道6kmもある雪道を歩くのは大変と開拓者たちの力で建てた分教所です。今は周りに近代的な綺麗な建物が並び、当時を忍ぶ事が難しいくらいです。 やがてペンション街から「ともにこの森」の裏に出ます。そこには開拓者の共同墓地があります。ここの中心に安池興男夫妻のお墓と恩賜の碑もあるのです。静岡にお墓のある安池家ですが、開拓者のたっての希望があり、ここにも分骨されています。恩賜の碑の裏には「感激の至情 楽土を拓 く 興男」 と興男さんの言葉を刻みました。ここのお墓はみんな同じ方向を向いています。それはふるさと小菅村に向いているのです。終着はレストラン・ロックです。今日はここで解散。それぞれに食事をして帰途に着きました。 又ここには藤倉学園園児の墓もあるのです。この詳細はこちらで。 今日のウォークでは担当の風路の和子さんの説明がとても上手で、さらによく分かるガイドブックまで配られ、私も含め開拓の歴史を深く知らなかった方にも、安池興男さんのことを余り知らなかった方にも、清里開拓の道のりを理解していただけたのではないでしょうか? 今回参加できなかったけれど、開拓の歴史を勉強したい方に 「感激の至情 楽土を拓く」 安池興男・人と足跡 次回は11月6日(日)の紅葉の棒道ウォークです。皆さん是非ご参加下さい。 追伸 このウォークの前に偶然テレビで「開拓の村は今」と言う番組が放映されました。じっくり見る事ができなかったのですが、開拓者の1人の方が「我々は東京都民の水のためにふるさとを追われ、ここで水の苦労をする事になったのです」と言った言葉が心に残りました。それはここに越して直ぐの頃、小淵沢の開拓の方に「水の苦労が一番大変だった。朝に晩に遠くの湧き水まで水を汲みに行った」と聞いたことがあるからです。どちらに行っても坂ばかりの小淵沢や清里で水を運ぶ苦労は並大抵ではないでしょう。それと関東圏の電力のために福島に原発ができ、この震災でその電力を使っていない福島周辺の方々が被害を受けているこことに重なったからです。東京電力から電気の供給を受けている私たちはそのことをしっかりと忘れてはいけないと思います。
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夕べの雨も止み、薄日も差してきて今日はウォーク日和です。今日のウォークは清里・開拓の道ウォークです。八ヶ岳にどうして開拓に入ったのか、そして開拓の人々はどうやってここを切り開いて行ったのか・・・私たちは知らないことだらけ。開拓の父としてポール・ラッシュさんは有名ですが、今日はもう1人の開拓の尽力者・安池興男さんにまつわる「安池興男物語ロード」を歩き、開拓の歴史を勉強しながらのウォークです。このコースは 「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも入っています。
清里も一歩横道にはいると一気に静かになり、緑溢れる道となり、賑やかさはどこにも感じません。今日は特別に許可をとって「青年の家」の敷地内にある牧草地を歩き、ヤッホーの丘にも行きました。
本来ならこの丘からは八ヶ岳、南アルプス、富士山、茅が岳などパノラマで見られるのですが、生憎今日は雲の中。でもみんで声を揃えて「ヤッホー」と叫ぶと山からこだまが帰ってきましたね。下の動画のスピーカ音を出して聞いてみましょう。
牧草地を抜けて、八ヶ岳興民館に到着。ここは公民館ですが恩人・興男さんの興をとって公興民館としたしたのです。
ここからが「安池興男物語ロード」の始まり。開拓者が心のよりどころとしたいと建てられたログハウスの神社・八ヶ岳御崎大神社に寄り、今はペンションやレストランが並ぶ道となっている中にある八ヶ岳分教所跡にも寄りました。地元の学校では身なりやヤニの匂い(家の中で松の根を燃やさなければ、まっくらな中で寒さにふるえていなければならないため)のためにいじめにあったり、片道6kmもある雪道を歩くのは大変と開拓者たちの力で建てた分教所です。今は周りに近代的な綺麗な建物が並び、当時を忍ぶ事が難しいくらいです。
やがてペンション街から「ともにこの森」の裏に出ます。そこには開拓者の共同墓地があります。ここの中心に安池興男夫妻のお墓と恩賜の碑もあるのです。静岡にお墓のある安池家ですが、開拓者のたっての希望があり、ここにも分骨されています。恩賜の碑の裏には「感激の至情 楽土を拓 く 興男」 と興男さんの言葉を刻みました。ここのお墓はみんな同じ方向を向いています。それはふるさと小菅村に向いているのです。終着はレストラン・ロックです。今日はここで解散。それぞれに食事をして帰途に着きました。 又ここには藤倉学園園児の墓もあるのです。この詳細はこちらで。
今日のウォークでは担当の風路の和子さんの説明がとても上手で、さらによく分かるガイドブックまで配られ、私も含め開拓の歴史を深く知らなかった方にも、安池興男さんのことを余り知らなかった方にも、清里開拓の道のりを理解していただけたのではないでしょうか?
今回参加できなかったけれど、開拓の歴史を勉強したい方に
「感激の至情 楽土を拓く」 安池興男・人と足跡
次回は11月6日(日)の紅葉の棒道ウォークです。皆さん是非ご参加下さい。
追伸
このウォークの前に偶然テレビで「開拓の村は今」と言う番組が放映されました。じっくり見る事ができなかったのですが、開拓者の1人の方が「我々は東京都民の水のためにふるさとを追われ、ここで水の苦労をする事になったのです」と言った言葉が心に残りました。それはここに越して直ぐの頃、小淵沢の開拓の方に「水の苦労が一番大変だった。朝に晩に遠くの湧き水まで水を汲みに行った」と聞いたことがあるからです。どちらに行っても坂ばかりの小淵沢や清里で水を運ぶ苦労は並大抵ではないでしょう。それと関東圏の電力のために福島に原発ができ、この震災でその電力を使っていない福島周辺の方々が被害を受けているこことに重なったからです。東京電力から電気の供給を受けている私たちはそのことをしっかりと忘れてはいけないと思います。